認知症の母に思う事

月に1回は母に会いに行きます。母は私と目が会うとにっこり微笑みます。しばらくすると、また、他に視線を向け、また目が会うと、今日はじめた会ったかのように、またにっこり微笑みます。私が誰だか分かっているのか、分かっていないのか、その確認すらできません。母は要介護5級の認知症です。
要介護認定基準は7段階に分かれています。軽度なものから、要支援1、要支援2、要介護1、要介護2、要介護3、要介護4、要介護5というようになっていきます。
具体的には、
要支援1・・・日常生活はほぼ自分でできるが、少し支援が必要。
要支援2・・・日常生活に支援が必要だが、要介護には至らず、改善する可能性が高い。
要介護1・・・立ち上がりや歩行が不安定。排泄や入浴などに部分的介助が必要。
要介護2・・・立ち上がりや歩行などが自力では困難。排泄・入浴などに一部または全介助が必要。
要介護3・・・立ち上がりや歩行などが自力ではできない。排泄・入浴・衣服の着脱など全面的な介助が必要。
要介護4・・・日常生活能力の低下がみられ、排泄・入浴・衣服の着脱など全般に全面的な介助が必要。
要介護5・・・日常生活全般について全面的な介助が必要。意志の伝達も困難。介護なしでは日常生活が不可能。
という感じです。
認知症にはいくつかの種類がありますが、主なものとして、アルツハイマー型認知症、脳血管型認知症、レビー小体型認知症が挙げられます。母の場合は、レビー小体型認知症です。
レビー小体型認知症とは、認知症の20%程度を占める病気で、レビー小体という神経細胞に出来る特殊なたんぱく質の増加が原因となって生じる認知症です。
施設には10人程度入居しています。入る時に、台帳に誰に会うか記入するのですが、会いに来ている人は月に数人程度で、この施設では、会いにくる人は多くは無いようです。
母と会っても、意思の疎通も困難な状況で、母は会話をしてくれません。私が独り言を5分くらいして帰るだけなのです。聞いてくれているのか、それすら確認できません。
いろいろ考えます。はたして、会いに行く事に意味があるのか?でも、ひょっとしたら、私のこと分かっていて、話も聞いてくれているのかも。これも、ただの自己満足なのだろうか?
過去を忘れ、未来を考えられなくなった人は生きてきた意味はあるのだろうか?
生きたきた証拠は?生きてきた意味は?これから生きる意味は・・・?
なかなかプラスの事が考えられません。でも、ふと思うのです。ひょっとしたら、人は認知症になるようにプログラムされているのだろうかと。少なくても、死を恐怖する必要もありません。過去を後悔する事も無く、先を不安に思う事も無いのです。今、ただ、この瞬間を生きているのですから。
いつも過去を後悔し、不安を抱えて生きるより、よっぽど、今を生きているのではないかと思うのです。