人に褒められるとうれしいものだ。それは認めらた存在感かもしれないし、優越感かもしれない。だがどうだ、実際はだれも褒めてはくれない。日々同じような生活を送って、同じような環境で、同じような周りの人で、いったい誰が褒めてくれるものか。そんなことは人に期待するだけむだなことだ。ならどうすればいいか。簡単だ、自分で自分を褒めればいい。自分を褒めるということは、自分自身を肯定し、自分自身の存在価値を自分自身で認める行為だ。他人がどう言おうが関係ないのだ。だが、人に褒められることもないのにどうやって自分を褒めればよいだろうか。
「お金持ちになる」という目標を作ればお金持ちになれるだろうか、なれるわけがない。生きがいや、やりがい、喜びは得られるだろうか。すべて無理だ。ただ、今とのギャップを感じるだけだろう。ではどうすればいのか。目標までに何をやるか、身近にできるところまで細かくすることだ。月に1万ためることはできるだろうか、1日100円だったらどうだろう。何か投資の本でも読んでみるのはできるだろうか。ゴールまでは程遠いかもしれない。だが、進まなければゴールには近づけない。人生は短い、だがまだ時間はある。まずはやれることを探すのだ。
細かくした小さな目標ができたらやってみればいい。できるところまで細かくしたのだから、できないはずはない。だがどうだろう。なんの満足感も得られやしない。いつでもできる小さな目標と、最終目標までのギャップがありすぎて、満足どころか、無意味にさえ思えるときもあるだろう。どうすればよいだろうか。人が喜びを感じるときは、望みが叶ったときだ。いわば目標を達成したときだ。ならば、小さな目標もできたのであれば、評価してあげればいい。もちろん、誰も褒めてはくれない。だから、自分自身で褒めるのだ。
簡単なことはすぐできる。だが、継続することは難しい。誰からも強制されないし、誰からも褒められることはない。モチベーションが継続できないのだ。ダイエットをして毎日体重が減ればやり続けれるかもしれない。だが実際はすぐには変わらない。毎日変わらない体重計をみたところでやる気は起きないのだ。どうすればよいだろうか。もっと客観的に自分をみてみることだ。そして「できたこと」に注目してみることだ。見るのは体重計ではない。ダイエットをした行動、それ自体だ。階段を歩く、食事を減らす、今日やったことがあればノートに書き出せばいい。「やれないこと」ではなく、「やれたこと」に意識するのだ。
最後に、とある映画の話し。余命6カ月を告げられた二人の患者が人生最後にやりたいことをやろうと二人で人生を謳歌する話だ。どうせ余命がないのなら、何をやっても意味がないと考えるか、どうせならやりたいことをやってみるか、と考えるか。どちらも正解はない。みんな余命を宣告されいてる。それは1年かもしれないし、50年かもしれない。さて、余命をどうやってすごすか、後で後悔する選択だけはしたくないものだ。