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彼女は死をえらんだ

ドキュメンタリー番組でした。とある女性は、まだ若く、しかし、筋肉が衰えていく病いで直す方法は無く、だんだんと自分では何もできなくなっていく。やがて、何度が自殺を試みるが、筋肉の衰えで、自殺も未遂に終わる。彼女には姉たちがいて、面倒をみてもらっている。歩く事はできないが、ゆっくりではあるがしゃべる事も、食べる事も、パソコンを打つ事もできる。テレビでみるかぎり、しっかり生きている。でも彼女はしっかりした意思で死を選択する。筋肉はやがて衰え、何もできなくなり、姉たちにありがとうも言えなくなる。そうしてまで生きていたいと思わないのだと。寝たきりになり、何もできなくなる前に、やらなければいけないことがある。自殺ではない、みずから選ぶ死。日本では消極的安楽死、つまり、延命処置の中断は認められているが、安楽死は求められていない。後数ヶ月もたてば、海外に行く体力もなくなることを知って、彼女が姉たちと向かったのはスイスだった。スイスでは、医師のほう助による安楽死が認められている。当然、いくつかのチェックがあり、誰もが安楽死を認められるわけではない。インタビューから、姉たちの苦悩が見受けられる。死んでほしくは無いが、生きる事が苦痛であることをしっているがための苦悩だ。きれいな病院らしき部屋で点滴の準備をしてベットに横になる。点滴のスイッチを自分で入れると数分で死に至る。やがて、彼女は点滴のスイッチいれる。姉たちに、いままでありがとうねと、しっかりした、それでいてゆっくりとした口調で話した後、まるで眠るようにして寝てしまった。番組では、同時に同じ病気になった別に人にもフォーカスをあてていた。生きることを選択した人だ。もはや、自分では何もできない、呼吸すらもできないため、人工呼吸器をつけた状態で、意志の疎通は、まぶたを動かすだけ。家族に連れられ、車椅子で桜をみにいく、そして涙するところで番組は終わった。点滴のスイッチをいれるとき、やめたいという気持ちはなかったのだろうか。死の選択はうつ病の薬で無くす事ができなかったのか。桜をみて涙したのは、嬉しかったからだろうか、悲しかったからだろうか・・・。